2004/1/2 県道から撮影 国道195号線を新在所橋で物部川の対岸に渡ると、 そこは朴ノ木部落です。寺は県道から50mほどのわずかな距離です。
 南北朝時代に、韮生郷の領主山田氏が千体の地蔵を奉納し、千体地蔵は県の保護有形文化財となっていて、 毎年、祖先供養の行事として千体流しが行われています。
 神仏習合の時代は、朴ノ木部落の氏神である厳島神社をはじめ多くの神社の別当寺となっていたが、 明治維新の廃仏稀釈で苦難の時を経て再興されたことが、香北町史に詳しく書かれています。

2003/11/24 撮影

 もと岩室山利仙院高照寺と称し、真言宗五台山金色教院竹林寺末であった。 開基の年代は詳らかではないが、(中略)南北朝時代既に寺があり、韮生郷の領主山田氏の帰依を得、 山田大中臣道■によって千体地蔵尊が奉納されたことが明らかである。
 当時の寺は現在の寺地の北約二丁程の地にあって長福寺と称え、伽藍は結構壮麗を極め、 一千の檀家と一町五反歩の寺領を有し、韮生郷屈指の寺として教化に当たっていた。 現在残っている長福寺、ダイモンなどの地名は寺や大門のあとを示している。
 寛文年間住職宥鏡の時現在の地に移転し、享保五年に寺名を高照寺と改めた。(中略)
 その後明治維新の大変革にともない同四年廃仏毀釈の厄にあい、仏像、経巻、僧坊、位牌を残し、 寺名は廃せられ過去帳までも散逸した。そのため住職もなくなり全くさびれてしまったが、明治三十一年持仏堂仮設後、 小池芳雄(明治31年)、渡辺宝栄(明治40年)、田辺芳宗(明治42年)、久米快禅(明治45年)、 小川清照(大正7年)、沢辺大円(大正8年頃)の諸僧が着任し復興のきざしが見えたが、その後再び住職がなくなった。
 昭和10年5月、朴ノ木部落の有志は郷土史家寺石正路を招き寺の詳細のわたり調査を行った結果 本尊千体地蔵尊は県下稀にみる傑作で且由緒の正しいことが明らかとなり、これに力を得て再興の気運がたかまり、 高知市高野寺の斡旋によって、静岡県伊浜の普照寺前住職であった小川妙行を迎えて寺名を復興することとなった。(中略)
 尚高照寺現存の仏像には本尊千体地蔵のほかに大日如来、文殊菩薩、普賢菩薩、観世音菩薩、弘法大師、歓喜天等がある。 千体地蔵とは高さ5.8糎の木像一千体の総称でその細工の精緻・入神の技術は拝観する人々の魂をうばう。 観世音菩薩は高さ64糎の木像で「寛政十二庚申正月吉辰摂陽西高津町住勅許仏師職田中右京法橋康寛六十一才彫刻之」と 記され、千体地蔵と共にすぐれた作品である。 尚この寺を俗に文殊様とよぶのはここにかつて文殊堂があって文殊菩薩を安置してあったことからである。(後略)
香北町史(松本実編集1968年発行)より

国土地理院発行2.5万分の1地形図「美良布」より。
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