香北町から望む御在所山。この山頂に神社があります。
御在所山は四国百山の一つ1079メートルの高さで、お椀をふせたような、あるいは乳房のような形をしています。 地元香北町や物部川流域のいろいろの所から望み見ることができます。また奥物部の山々の頂上からも見えます。神社は御在所山の山頂に鎮座します。
一の鳥居
大屋敷から険しい山道を息を切らして登ってきて、最初の鳥居にたどり着きます。
鳥居の前がちょっとした広っぱで、その真中がやや盛り上がっていて土俵の痕跡が残っていました。
祭りの日にここで奉納相撲をとった昔を偲ばせるものでしたが、道路工事で今は見る影もありません。
登山口からの道のりで平らな場所といえば、ここだから、集落から本殿までの道半ばながら、土俵はここにせざるをえなかったと思われます。
石段の参道は両側に杉の古木が並ぶ。
地形図でみると、すべての道程が等高線を直角に横切るように登っていて、等高線に沿うような緩やかな所はありません。
鳥居をくぐって上り始めると、両側に杉の大木が立ち並んでいます。参道すべて急峻な石の階段であり、山道です。
山頂の社殿を目指すのなら十分な時間の余裕を持つことが必要です。
拝殿の前の石段
いよいよ山頂に近づくとやや平坦な道が30メートルほど続き、二つの鳥居をくぐると、目の前に石段が現れます。
60度を超しはしないか、石段というより石垣に近いとさえ思えます。しがみつくようにして、登りきると、そこに拝殿があります。
その間3メートルあるかなしか。広角レンズでも拝殿の全景を正面から撮るのは不可能。
社殿の後には十分余裕があるので、この作りには何か意味がありそうに思えます。
拝殿
右側が本殿。左の赤い屋根は拝殿。
本殿正面
朴ノ木村の内大屋敷部落字五山所に鎮座
無格社
韮生大山祇神社
一、祭神 大山祇命
一、合併祭神 安徳天皇・教盛卿
一、由緒 勧進年月縁起沿革等つまびらかならず。もと聖権現と称す。明治元年仏語を以って社号に用いる者は改称すべきの令により、
韮生山祇神社と改む。古来朴ノ木村の内大屋敷部落の崇敬神なり。伝来棟札
宝暦二年十月建立あり
明治七年申戎年十一月一日本殿拝殿共再建立。
古老口碑に曰く当山は古昔此の山の麓に山神を祭る祠のみなりしが、 昔寿永元年安徳天皇様御潜幸の時阿州クルス堂と云う処より山谷を経廻り御辛苦の余り此所へ御落着あり御住居遊ばしたる故に、
王屋敷又は王奥房又権族と云う。是は丈夫の訳ありと云う。 此王屋敷と云は安徳天皇様の御座所にて其鬼門の処に観音尊をまつり、其側らに衣掛の石と云あり。
其西に公家屋敷と云所あり。其南に姥屋敷と云所ありて所々に御塚あり。 安徳天皇様の御陵は此の山の頂にありて其御陵の後の方に御附々百四十七人の御塚あり。
此の所を奥の院様と申して諸人の参られぬ所なり。依りて山の八合目にて御座所聖権現様と御祠り申したりしが、
後世宝暦の年岩室山利仙院と云者其奥の院様へ御宮を上げ五在所大権現と称す。諸人参られぬ所へ注連縄を引廻し、
其所を百四十七社権現様と御祠申し夫れよう潔斎した人々は参拝出来初りたりと世々村老の言伝ふ。
高照寺一世 祐○聞記す 香北町史(松本実編集1968年発行)より
国土地理院発行2.5万分の1地形図「奈呂」より。
書き込みの位置は正確でない場合があります。
大屋敷まで車でいって、そこから歩くのが従来のお参りでしたが、今では梅久保から右に入って、一の鳥居の前まで車で行けます。